当時信長が炎に包まれたときの場所はこの場所ですが、現在の本能寺は寺町通り沿いの東側で御池通りに限りなく近い場所にあります。
これは移転後の場所であって、本能寺の変があったときの場所は現在廃校になってしまったのですが、本能小学校の辺りにあったとされています。その場所に行ってみると「此付近本能寺跡」という石碑が立っています。

秀吉が書き直したか?
安土桃山時代の絵師、狩野永徳作とされ、大徳寺(京都市)が所蔵する織田信長の肖像画が、完成後に服装の色や模様を地味にし、刀の本数も少なくするなど描き直されていたことが、京都国立博物館(同市)の調査で分かった。
ひげも上に立ち上がった精悍な顔つきであったようだ。裏面に緑と茶の2色の小袖をまとい、大ぶりな桐(きり)の紋や2本の脇差しなど、華麗な雰囲気の信長を描いた跡が残っていた。

秀吉からすれば、信長のイメージが邪魔になったのでしょか?歴史というのは、為政者のものであるので、秀吉が書き直したとしても不思議ではありませんが、天下統一まで後一歩という所まできていた信長が討たれるという事はすさまじい歴史であると思います。又、光秀に討たれた時も潔く本能寺に火を放ち、自害したという事も、その当時の人でないと理解できないかもしれません。

興味のつきない信長のストーリー
信長の江戸時代の評判は悪く、暴君というイメージですが、明治維新以降に改革者としての信長像が生まれてきます。 ですから、今の考えで信長を見ることに意味は無いかもしれませんが、戦国時代に思いをはせるのは楽しいですね。
単独犯行説(怨恨説・野望説・ノイローゼ説)と黒幕説(朝廷説・足利義昭説・本願寺説・イエズス会説・徳川家康説・秀吉説)がありますが、皆さんはどの説派ですか?
本能寺の変の1年前に明智光秀家中軍法で、信長に忠誠を誓っていた光秀が、なぜ謀反を起こしたのか?時代を動かしていた人々の考えに浸りながら、京の町を散策してください。

[本能寺跡]

住所: 〒602-0947 京都府京都市上京区 小川通

電話: なし

拝観時間: なし

休館日: なし

駐車場:なし

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